フリーフォール25 ジョセフ・E・スティグリッツ
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アメリカを含め、経済運営に成功した国々では必ず政府が重要な役割を果たしている
政府が特に大きな役割を果たしてきたのが、大きな成功を収めた東アジア経済だ
この地域においては、過去30〜40年間で国民一人あたりの収入が史上例をみないほどの伸びをみせた
それらの国のほとんど全てで、政府は市場メカニズムを通じて積極的な役割を担い、開発を促進してきた
中国は30年以上にわたって平均年率9.7%で成長し、数億人を貧困から救い出すのに成功している
日本の政府主導の急成長は過去のものだが、シンガポール、韓国、マレーシアなど多数の国々が日本の戦略を学び、改良して、一人当たりの収入を四半世紀の間に8倍に増加させた
もちろん政府も誤りを犯しがちだ
しかし、東アジアで、そしてそのほかの場所で、失敗を補って余りある成功が成し遂げられた
経済実績を高めるには、市場と政府の両方を改良していくことが求められる
完璧な市場モデルは、新古典派モデルと呼ばれることがある
新古典派経済学の主要な予言の多くはたやすく論駁できる
最も明白なのは、「失業は存在しない」という予言だ
市場の均衡状態では、りんごに対する需要と供給が必然的に釣り合うのと全く同様に、(この理論では)労働に対する需要と供給を必然的に釣り合わせる
新古典派経済学から引き出される奇妙な結論はそれだけではない
追従者たちは、信用割当などというものは存在しないとも主張する
だれもが借りたいだけ借りられる、ただし、利率は債務不履行の危険性を適切に反映したものになる、と
経済学の主流が現実から乖離している3つめの例は、企業の財務構造に関わる
ある会社が資金調達を負債で行うのか、株式で行うのかは、問題ではないという考え方
主張は、企業の価値は、稼ぎ出す利潤のみによって決まり、その利潤の大半が負債の支払いにあてられ(収益レベルに関わらず固定費を払う)、残りが純資産として増加するのか、大半が純資産として増加するのかは、たいした問題ではない
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破産の可能性と破産に関連するコストを、さらには、借金が増えれば増えるほど破産の可能性が高くなるという事実を考慮しなかった
現在の危機によって誤りだと示された4つめのものは、収入を決めるものと不平等についての説明だ
熟練労働者や非熟練労働者の賃金と、企業重役の給与の対比をどのように説明するのか?
新古典派理論は、それぞれの労働者が社会に対する限界貢献(その人物の労働が加わったことによって、社会にどれだけの効用が生じるか)に従って支払いを受けると述べることで、不平等を正当化した
この見解では重役への報酬に口をはさむのは、市場の効率性に逆らうことになってしまう
過去四半世紀の間にこの理論で重役への報酬の急騰を説明できるかどうかについて、ますます疑念がつのってきた
この間に上級幹部の給与は、平均労働者の40、50倍という30年前の数値から、数百倍ないし数千倍へと上昇した
幹部の生産性が突然高くなったわけではないし、人材が突然不足したわけでもない
それに、ナンバーワンの立場にいる者のほうがナンバーツーよりも給与が多い分だけ熟練しているという証拠はなかった
グローバル化された世界では、様々な国々において同じような技術が利用できるようになったのに、なぜこういう報酬格差はアメリカのほうが他の地域よりはるかに大きいのか、という点も、新古典派理論では説明できなかった
最後の例は、新古典派理論の元では、差別などは存在しないというものだ
理論的な根拠は単純だった
差別が存在するなら、そして、社会に差別的ではない人がいるなら、その人は差別によって不利な立場に置かれているグループのメンバーを雇うだろう
というのも、そういう人々は賃金が安いからだ
これによって賃金は上がり、最終的にはグループ間に存在する差異はなくなるだろう
シカゴ学派は、市場は常に効率的だと信じていたので、現在の景気後退のような経済変動を心配すべきではないと言い張る
経済が外部から受けた衝撃(例えばテクノロジーの変化のような)に効率的に適応しようとする動きにすぎない、と
この学派が政策に関して出す処方は明確で要するに、政府の役割は最小限にすべきだというものだ
この学派は新古典派モデルを元に分析を行っているが、そのモデルをさらに単純化して、全ての個人は同一の存在であると考えた
これは、代表的個人モデルと呼ばれた
しかし、すべての個人が同一の存在であるなら貸し借りはありえない
そうなると倒産もありえない
あたしがまえに主張したように、情報不足から生じる数々の問題が現代経済学を理解するにはきわめて大切だが、この学派のモデルでは、ある人が知っていることを他の人はしらないという情報の不均衡は存在しない
情報の不均衡をこのモデルで説明しようとすると、同一の個人が激しい分裂状態にあるということになり、人間は完全に合理的な存在であるとする他の前提と矛盾してしまう
この学派の分析から出て来る(一見ばかげた)結論の多くは、そのモデルが前述のように様々な点で極端に単純化されてしまっていることから生じる
そういう結論のひとつが、政府の赤字支出は経済を刺激するわけではないというものだ
この結論は、市場は完璧だという前提よりもさらに非現実的な前提から導き出される
代表的個人は、この赤字をまかなうために将来税金が課されることを知っているので、そういう税金を支払うために現在手に入るお金をとっておくという前提だ
これは消費支出の減少が政府支出の増加を完全に相殺してしまうことを意味する
また別の例として、失業手当てを取り上げて、個人が失業することなどない(単に休暇を楽しんでいるだけだ)し、どのみち本人が望みさえすればいつでも借金して消費を一定に保つことができるから、失業手当てなど不要だと主張する
それどころか失業手当ては有害だとまでいう
なぜなら問題は職が足りないことではなく、職に就きたいと望むなら誰にでも職がある、職を探そうとする努力が足りないことであり、失業保険はそのモラルハザードを悪化させるだけだという論法だ
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アメリカを含め、経済運営に成功した国々では必ず政府が重要な役割を果たしている
政府が特に大きな役割を果たしてきたのが、大きな成功を収めた東アジア経済だ
この地域においては、過去30〜40年間で国民一人あたりの収入が史上例をみないほどの伸びをみせた
それらの国のほとんど全てで、政府は市場メカニズムを通じて積極的な役割を担い、開発を促進してきた
中国は30年以上にわたって平均年率9.7%で成長し、数億人を貧困から救い出すのに成功している
日本の政府主導の急成長は過去のものだが、シンガポール、韓国、マレーシアなど多数の国々が日本の戦略を学び、改良して、一人当たりの収入を四半世紀の間に8倍に増加させた
もちろん政府も誤りを犯しがちだ
しかし、東アジアで、そしてそのほかの場所で、失敗を補って余りある成功が成し遂げられた
経済実績を高めるには、市場と政府の両方を改良していくことが求められる
完璧な市場モデルは、新古典派モデルと呼ばれることがある
新古典派経済学の主要な予言の多くはたやすく論駁できる
最も明白なのは、「失業は存在しない」という予言だ
市場の均衡状態では、りんごに対する需要と供給が必然的に釣り合うのと全く同様に、(この理論では)労働に対する需要と供給を必然的に釣り合わせる
新古典派経済学から引き出される奇妙な結論はそれだけではない
追従者たちは、信用割当などというものは存在しないとも主張する
だれもが借りたいだけ借りられる、ただし、利率は債務不履行の危険性を適切に反映したものになる、と
経済学の主流が現実から乖離している3つめの例は、企業の財務構造に関わる
ある会社が資金調達を負債で行うのか、株式で行うのかは、問題ではないという考え方
主張は、企業の価値は、稼ぎ出す利潤のみによって決まり、その利潤の大半が負債の支払いにあてられ(収益レベルに関わらず固定費を払う)、残りが純資産として増加するのか、大半が純資産として増加するのかは、たいした問題ではない
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破産の可能性と破産に関連するコストを、さらには、借金が増えれば増えるほど破産の可能性が高くなるという事実を考慮しなかった
現在の危機によって誤りだと示された4つめのものは、収入を決めるものと不平等についての説明だ
熟練労働者や非熟練労働者の賃金と、企業重役の給与の対比をどのように説明するのか?
新古典派理論は、それぞれの労働者が社会に対する限界貢献(その人物の労働が加わったことによって、社会にどれだけの効用が生じるか)に従って支払いを受けると述べることで、不平等を正当化した
この見解では重役への報酬に口をはさむのは、市場の効率性に逆らうことになってしまう
過去四半世紀の間にこの理論で重役への報酬の急騰を説明できるかどうかについて、ますます疑念がつのってきた
この間に上級幹部の給与は、平均労働者の40、50倍という30年前の数値から、数百倍ないし数千倍へと上昇した
幹部の生産性が突然高くなったわけではないし、人材が突然不足したわけでもない
それに、ナンバーワンの立場にいる者のほうがナンバーツーよりも給与が多い分だけ熟練しているという証拠はなかった
グローバル化された世界では、様々な国々において同じような技術が利用できるようになったのに、なぜこういう報酬格差はアメリカのほうが他の地域よりはるかに大きいのか、という点も、新古典派理論では説明できなかった
最後の例は、新古典派理論の元では、差別などは存在しないというものだ
理論的な根拠は単純だった
差別が存在するなら、そして、社会に差別的ではない人がいるなら、その人は差別によって不利な立場に置かれているグループのメンバーを雇うだろう
というのも、そういう人々は賃金が安いからだ
これによって賃金は上がり、最終的にはグループ間に存在する差異はなくなるだろう
シカゴ学派は、市場は常に効率的だと信じていたので、現在の景気後退のような経済変動を心配すべきではないと言い張る
経済が外部から受けた衝撃(例えばテクノロジーの変化のような)に効率的に適応しようとする動きにすぎない、と
この学派が政策に関して出す処方は明確で要するに、政府の役割は最小限にすべきだというものだ
この学派は新古典派モデルを元に分析を行っているが、そのモデルをさらに単純化して、全ての個人は同一の存在であると考えた
これは、代表的個人モデルと呼ばれた
しかし、すべての個人が同一の存在であるなら貸し借りはありえない
そうなると倒産もありえない
あたしがまえに主張したように、情報不足から生じる数々の問題が現代経済学を理解するにはきわめて大切だが、この学派のモデルでは、ある人が知っていることを他の人はしらないという情報の不均衡は存在しない
情報の不均衡をこのモデルで説明しようとすると、同一の個人が激しい分裂状態にあるということになり、人間は完全に合理的な存在であるとする他の前提と矛盾してしまう
この学派の分析から出て来る(一見ばかげた)結論の多くは、そのモデルが前述のように様々な点で極端に単純化されてしまっていることから生じる
そういう結論のひとつが、政府の赤字支出は経済を刺激するわけではないというものだ
この結論は、市場は完璧だという前提よりもさらに非現実的な前提から導き出される
代表的個人は、この赤字をまかなうために将来税金が課されることを知っているので、そういう税金を支払うために現在手に入るお金をとっておくという前提だ
これは消費支出の減少が政府支出の増加を完全に相殺してしまうことを意味する
また別の例として、失業手当てを取り上げて、個人が失業することなどない(単に休暇を楽しんでいるだけだ)し、どのみち本人が望みさえすればいつでも借金して消費を一定に保つことができるから、失業手当てなど不要だと主張する
それどころか失業手当ては有害だとまでいう
なぜなら問題は職が足りないことではなく、職に就きたいと望むなら誰にでも職がある、職を探そうとする努力が足りないことであり、失業保険はそのモラルハザードを悪化させるだけだという論法だ