流通王3 大塚英樹


「文化というものは、いかがわしさから生まれる。歌舞伎も浄瑠璃も常磐津も端唄も、みんな、いかがわしさが発祥だ」
中内はよくこういった

文学でも演劇でも音楽でも、メジャーになるまではいかがわしいと言われる
そのいかがわしさが文化を作る
いかがわしくなければ文化は生まれないし、そうして生まれた文化も、メジャーになった時点で文化ではなく権威になる
権威はもはや文化ではない
中内はこのように考えていた

ダイエー、一号店を千林に出店した昭和30年代初頭の日本では、スーパーマーケットは「スーッと現れてパーッと消える、いかがわしい商売」だと見られていた
人々がいかがわしいと言うからこそ、これはいけるぞと確信を持ったのである
いかがわしいものにこそ、大衆を惹きつける魅力がある
中内の尋常ならざる好奇心は、こうした確信をベースにしたものである
そして彼は、自分自身の好奇心をそそるような大衆相手の様々な業態を開発し、展開した

これからの時代、横並びの状態から企業を突出させるには、経営者に中内のような旺盛な好奇心が不可欠である
しかしながら、今後の経営者に、いかがわしさを母体とする中内的な事業が、果たして本当にできるだろうか
グローバリゼーションの時代には、明確な経営ビジョンをはじめ、情報開示、経営の透明性、株主重視、収益重視、厳格な遵法精神といった要素が強く求められるからである
これらは、いかがわしさとは対極に位置するものである


「明治以前は、日本は大町人国家で、大町人が国を動かしていた。たとえば、江戸時代は侍が官僚の役割を果たしてきたが、官僚に金をだしていたのは鴻池、三井といった大町人だった。新しい文化もほとんどは町人によってつくられた。江戸時代には、けっこう遊びがあった。日常生活の中に、浄瑠璃、長唄、芝居、さらには伊勢参りなど•••。」
ところが明治時代以降、日本人にあそびがなくなっていったと中内は考えていた
「遊びの文化、町人文化が栄えたのは、江戸時代までやね。明治以降は官僚主導で、列強に追いつけ追い越せという政策をとった結果、遊びの文化は廃れ、産業一辺倒になってしまった。•••文化の回復と称してゴッホやミレーの絵を買ったりしているけど、そんなもん買っても、文化とは言えない。日本人自らがなにかをつくっていくというプロセスが大事なんやから」
中内は明治以降の歴史をすべて否定していたわけではない
日本が産業を興し、技術革新を行い、生産力を欧米の水準にまで高めてきたことには、それなりの意味があったと考えていた
しかし、生産第一主義の工業化社会が長く続き、官民一体による重工業中心の経済秩序ができてしまった
そのため、本来的にはゆとりと遊び心を持っていたはずの日本人の気質が歪められてしまったと、中内はその弊害を指摘したのである
「明治維新を境に、日本人はゆとりや遊び心、つまりプロセスの大切さを忘れ、結果だけを重視する、せっかちな気質にかわかってきたのではないか。日本人はせっかちだとよく言われるが、昔からそうだったわけではない。明治政府が近代化を図る上で効率化を最優先したため、時間の消費は悪、時は金なり、といった考え方が主流を占めるようになったのだ。だから、逆に言えば、明治以前の江戸時代までは、日本人は結果に関係なく時間を上手に消費して、プロセスを楽しんでいた民族なんだと思う」


中内はアメリカのスーパーマーケットに多くを学んだが、とりわけ注目したのは、そのシステムだった
アメリカでスーパーのチェーン展開が可能になったのは、システム化の賜物にほかならない
中内が模範としたアメリカの商品の集荷システム、配送システム、店舗システムなどは、その典型例であった
中内経営の特徴は、なにごともシステムで動かすことに腐心したということであろう
中内ほど、仕組みづくりを強調してきた経営者はいない
事業は仕組みで動かさなければいけないと唱える
店舗開発も、仕入れ業務も、物流も、店も、店内サービスも、みんな仕組みで動かす必要がある
仕組みが機能して初めて人間が動く、すなわち「初めに仕組みありき」なのであって、「初めに人間ありき」ではないというのだ
経営者の多くは、企業は人が資産だと考える
企業によっては、人材を人財と書く企業もある
「人材は企業の宝」であり、「人材こそ企業のすべて」というわけだ
そんなことは百も承知の上で、中内は仕組みづくりを強調するのである
なぜシステムなのか
中内が目指したのは
寡占化する巨大メーカーに拮抗する流通勢力をつくり、消費者主権を奪還する流通革命だった
そのためにナショナルチェーン展開を行い、コングロマーチャント(複合小売集団)を実現させて全国をダイエーのオレンジ色に染め抜く
これは点とか線の事業ではなく、いわば面の事業である
それだけに急がれる
バイヤーも店長も、ひとつの機能として捉えていかないと追いつかない
だから、誰が店長をやっても、機能としての店長だから店は自然と動く
人がどんどん変わっても仕組みとしてやっていける態勢
これが、中内の目指すシステム重視の事業のあり方だった


日本には、戦後を代表する経営者が何人かいる
例えば、本田宗一郎
浜松の自動車修理工場から身を起こし、ホンダを世界一の二輪車メーカーへと育て上げ、そのあと四輪車に進出
低公害のCVCCエンジンなどの画期的な技術で世の中に貢献した
ソニーの創業者である井深大も、世界最小のトランジスタラジオを開発して、世界中に売りまくり、世界のソニーブランドを確立した
経営の神様と呼ばれた松下幸之助は、自前の経営理念と長期的ビジョンを持ち、それに沿って組織戦略を立てて経営を実行した
彼の経営理念の一つに水道哲学と呼ばれるものがある
松下幸之助は、経営者であると同時に、経営思想家としての側面をも持ち合わせていただが、こうした戦後を代表する経営者たちも、社会システムを変えるほどの革命的な事業家であったかというと、ほとんどがそうではない
これらの経営者は、商品の発明、開発で新しいライフスタイルを世の中に送り出しはしたが、それで社会のあり方を変えたわけでもなければ、大衆の生活サイクルを一変させたわけでもなかった
対して、われわれの日常生活もっとも密着しているのは、自動車やラジオやテレビではなく、日々消費する食品や日用雑貨扱う店である
中内はその店を全国各地につくり、よい品を安く提供し、それまでの日本にはなかった「一般大衆にとって都合のよい社会」を築きあげた
それだけではない
メーカーに安くてよいものをどんどんつくらせて、そこで働く人々の給料を押し上げた
さらに、地方都市にダイエーが進出することによって、周辺のショッピング環境が整備され、土地の価格を上昇させた
そこに住宅地ができて人口が増加すれば、幼稚園や学校や図書館も、さらには病院などもつくろうということになり、地域社会は発展していく
こうして、中内は、ショッピング環境にはじまり、住宅環境、教育環境、医療環境を整備するといった、社会そのものが大きく変わるきっかけをつくっていったのである
その意味で中内は、戦後の経済成長を利用したのではなく、高度経済成長時代をつくり出し、演出した真の事業家であった

中内はまた、「俺は事業家であって、社長ではない」という言い方もしていた
社長というのは、会社が順調に存続できるよう運営管理していくスキルを持った経営のプロのことである
そこで絶対にやってはいけないことは、会社を潰すことである
会社が存続できなくなるような状態に陥ることだけは、なんとしても避けなければいけない
中内の場合、事業を興しただけでなく、経営のプロに任せるべき会社の運営管理までも自分でやってしまったところに問題があった
第三者に任せきれなかったのである
右肩上がりの時代はそれでよかったかもしれない
だが、いまの時代に中内のようにやりたい放題に会社を経営したなら、おそらく一年ももたずに潰れてしまうだろう
実際、バブルが弾け、経営環境が変わり、ダイエー本体の収益が頭打ちになっているにもかかわらず、そのあとも同じようにさまざまな事業に手を出してはさらに巨額の借金をする、依頼があれば企業の買収や合併を手当たり次第に行う
こんなずさんな経営をしていて、企業が存続できるはずがなかった
1980年代になって、ダイエーの業績が低迷したとき、中内は初めて外部から再建請負人を招き、実質的な経営者に据えて、奇跡のV字回復を成し遂げた
しかし、そのときでさえ、中内の興味や関心の対象は業績の回復よりも、自身の革命がどこまで進んでいるかにあった
V字回復を進めるために、自分がやろうとしている消費文化の革命のスピードが緩んでしまうことを懸念していた
事業家•中内㓛の最大の失敗は、間違いなくダイエーの運営管理を経営のプロに任せずに自分でやってしまったことだろう
事業家であるならば、新しい事業をつくり出すことだけに専念すればよかったのだ