しまむらとヤオコー3 小川孔輔

■しまむら
藤原秀次郎 日経ビジネスインタビュー
「、、、しまむらでは、店舗を作るときに、不動産は自分たちでやることにしました。物流もそうなんだけれど、我々は専門家に任せず、自分たちでやりました。それは、ユーザとしてのあるべき論、理屈を通せるからです。専門家が大変だということに限って、自分でやってみれば意外に簡単なものです。うちは理屈を通したら1000店舗以上できました」
しまむらの経営の自前主義は、藤原の「
とにかくなんでも自分でやってみる」という原体験を出発点にしている

しまむらの商圏は自転車で10分の範囲、半径2キロメートル程度である
その中に、5000世帯、2万人が住んでいることが採算の目安である
市町村別の人口は統計でわかるが、出店情報としてはもっと局所的な情報が必要である
小学校の数が世帯数や商圏人口を推計する最も優れた指標になる
藤原はいち早くそのことに気づいていた
藤原の理屈では「出店候補地の周囲2キロメートル圏内に小学校が3つあること」が出店の最低基準だった
小学校(全国で3万校)に対する世帯数(5000万世帯)の割合は、約1667倍である
3つの小学校があれば、5000世帯が商圏内に住んでいることになる

しまむらの経営は、合理的で科学的な考え方をベースにしていることが特徴である
上空からセスナで立地場所の商業性を確認したり、店舗のサイズを決定したりする場合でも、客観的なデータや情報を根拠に可否を判断する
将来の環境変化に関しては、高速道路の延伸を予測したり、住宅地の開発状態について情報をいち早く収集している
新しいことにチャレンジする精神が旺盛なこと、そして理屈が成り立つことに対しては多大な出費も惜しまない
セスナをチャーターして、上空から立地をチェックするなど、恒俊の行動はそうした進取の気性をよく表している

■ヤオコー
昭和40年代の半ば、日本は高度経済成長の真っ只中にあった
流通業界の地図が大きく塗り替えられようとしていた
企業同士の合併と大型化が進行していた
1970年(昭和45)に、岡田屋、フタギ、シロの3社が合併してジャスコが設立された
71年(昭和46)には、ほていやと西川屋の両社が合併してユニーが誕生した
72年(昭和47)にダイエーが東証1部に上場
売上高1兆円のチェーン小売業が誕生することも夢ではなくなった
日本型スーパーストアが最も輝いていた時代である
関東のスーパーもそれに負けず劣らず、勢いがよかった
上野光平が支配人を務めていた西友は東京西地区に82店舗で年商955億円
伊藤雅俊社長のイトーヨーカドーは、東京の下町を中心に19店舗で年商350億円
流通各社は、年率30〜40%の高い成長目標を掲げていた
激しい出店競争は、商店街との間で摩擦を引き起こした
流通規制の引き金(大店法の成立)が引かれるタイミングが目の前に迫っていた
埼玉県の田舎町にあって、ヤオコーは人材面、資金面、組織面で大きなハンディキャップを背負っていた
このままでは、大手の流通各社から置いてけぼりをくらいそうだった
追いつくために、多店舗化と店舗の大型化に取り組むことが急務だった
58年(昭和33)、八百屋からスーパーに業態を転換したヤオコーは、いち早くセルフサービスを取り入れていた
近代化に踏み出してはいたが、幸夫にはすべてが中途半端に思えた
そのあとも生鮮部門は、プリパックせずに対面販売を続けていた
魚と肉はその場で包んで、値段を記して客に手渡しするやり方だった


同じ小川町出身で、同じ時期に成長を始めたヤオコーとしまむらは、長瀬店、児玉店、境店などで、共同出店をしていた
ヤオコーが8ヶ月で撤退した境店を除いては、ヤオコーが土地、建物の開発を行い、しまむらがヤオコーから場所を借りる形がふつうだった


1978年(昭和53)ごろまで、しまむらは駅前の繁盛店などを中心に出店を進めてきた
大店法の規制のかからない150坪タイプの店を郊外の生活道路沿いにつくるのは、はじめての試みだった
二ヶ月後ヤオコー10号店、高萩店が開店した
高萩店の成功を境に、埼玉県の北部で力を蓄えたヤオコーは、高麗川店、所沢北野店、一本松店と、県の南寄りへと進出していく
82年時点で13店舗、売上高165億円を達成する
一方のしまむらは、翌年3月に出店した高萩店が大当たりした
大店法の網の目にかからないフリースタンディング立地(単独でロードサイドへの出店)の始まりである
店舗を標準化し、物流システムを整えたしまむらはさらに、群馬、茨城、栃木、千葉、静岡へと店舗網を広げていくことになる

ちなみに、ヤオコーとしまむらが共同で店を出したのは、85年(昭和60)の川島店のあと、しばらく途絶える
共同出店が難しくなった理由は、主として商圏特性に求められる
しまむら(衣料品)の商圏は広いが、ヤオコー(食品)の商圏は相対的に狭い
出店のスピードにも違いがあった
大店法の影響で78年(昭和53)年以降は、出店に厳しい規制が掛けられるようになってきた
食品スーパーの出店には反対勢力が多い
ところがしまむらのような衣料品スーパーに対して、その圧力はさほどでもなかった