功名が辻 司馬遼太郎
■
室町時代や鎌倉時代、また江戸時代といった社会の固定した時代では、人間は生まれた環境から容易に抜け出せない
しかし戦国時代は違う
主人も有能の士をよりすぐってめしかかえるかわり、士たる者も主人を選ぶ
選ぶ自由を持っている
主人が無能で主家が振るわぬとあれば、さっさと退散するのが、この時代である
主従たがいが、たがいの才能を通じて結び合っている
それ以前やそれ以後のように、忠義、情義でのみ結び合った関係ではない
■
秀吉の外交政策最大の傑作は、家康の同盟者である織田信雄に打った手である
信雄にとって魅力的な条件を出して講和を申し入れると信雄はころりと参ってしまい、家康には相談もせず単独講和を結んでしまった
もともと事の起こりは、信雄が「秀吉は織田家を潰そうとしている。卿こそが頼りだ」と家康に泣きついてきたからこそ家康は立ち上がったのである
この軽率さは、本来の暗愚にもよるが、苦労知らずのお坊ちゃんだからこそであろう
あっという間に、家康はその強大な同盟軍を失い闘う理由も失ってしまった
家康はこれを噂で聞いた
当然、信雄の裏切りと秀吉のずるさに激怒すべきなところだが、使者を秀吉と信雄に送り、「いや、めでとうござる。御和睦は天下万民のよろこびでござれば。ー」と言上させた
外交の極というべきものであろう
■
羽柴秀吉は、内大臣からさらに官位をすすめられ、関白になった
ついでながら、秀吉は武門の出だけに、最初、源頼朝、足利尊氏の先例にならい、征夷大将軍を望んだ
が、これは歴史的に源氏の家系の者が任ぜられる職で、先例主義の宮中では任じようとしても任ずる事ができない
幸い、中国の毛利家に亡命して落魄の身を養っている前将軍足利義昭に使者を走らせ、その養子になり源氏の姓を冒そうとした
が、気位の高いこの没落貴族は自分の家系を売ることをこばんだ
それを見かねたのが、かねて秀吉に取り入っていた公卿の菊亭晴季である
関白という手がござる。 と、菊亭晴季がいった
官位から言えば関白は征夷大将軍より上である
が、関白は公卿の最高の家格である五摂家でなければその職につけない慣例がある
秀吉は、前関白近衛前久の猶子にしてもらい、ようやく関白になれた
■
徳川幕府の江戸防衛思想は、幕府創設以来の仮想敵国は、防長の毛利と薩摩の島津である
もし毛利•島津が兵を西国であげて東上してくるとき、まず姫路で抑え、姫路が陥れば大阪城でおさえ、それが陥れ名古屋城でおさえる
この三城が徳川時代を通じて最大の城郭であったことを思えば、それがわかる
が、そのいずれも陥ちれば、最後は箱根の嶮で迎え討ち、ここで敵を追い落とすというものであった
が、維新戦争の結果、箱根はもろくも潰え去って江戸に官軍を迎えてしまっている
頼みにした高名な堅城、峻嶮が役に立った例は、史上あまりない
■
家康という男は、それが本性なのかどうか、彼は年少の頃からその律義さを売り物にしてきた
「律義者の三河殿」と言えば家康のことであった
信長との同盟時代も何度か信長に煮え湯を飲まされてきたが、それでも離れずに信義ただ一つでついてきた
「徳川殿はお約束に固い」とか
「徳川殿にさえ物を頼めばかなえてもくれるし、裏切られもせぬ」ともいわれてきた
いまや、これが家康の財産である
家康の強味はまずこの世間的な信用と、次いで彼に随順しきっている三河武士団ということができるであろう
のち、秀吉危篤前後から人変わりしたほどに、この男はたけだけしい権謀術数家になって豊臣の天下を奪ってしまったうのだが、この人格変化はどういうことであろう
とにかく信長という強盛なときは一途に信長に随順し、秀吉の強盛なときは針金ほどのむほんの噂も恐れる男であった
奸悪(かんあく)。と後世に印象される家康の奇怪な性格はここにある
かなわぬ、とみれば貞女のような淑徳(しゅくとく)を発揮するのである
いまだ、と時機を見抜くと、老婆のような入り組んだ智恵、底意地の悪さを発揮するのだ
一種の人間妖怪といったほうが、家康にはあたっている
■
秀吉が家康を関東の大領主にしたことによって、考えようによっては、日本を真っ二つに割ってしまったことになる
もっと、はっきり言えば、秀吉の政権に対する家康の政権を認めた、ということさえいえるであろう
日本列島は長い
長すぎるために、一つの政権が日本を完全に統治した例はなく、常に西部政権と東部政権とがあった
遠い昔、大和に朝廷があったころはむろんそうで、その統治力はせいぜい近畿周辺に過ぎなかった
平家の政治もそうである
箱根から東側は力が及ばず、坂東の地にやすやすと頼朝が根をおろしてしまった
京都に政府を置いた足利爆風もそうで、関東の統治は関東公方に任せざるをえなかった
京、大阪に政権を持つ秀吉は、瀬戸内海沿岸から九州にかけての西国を治めることができるが、箱根から東はそうはいかない
それを家康に委ねた、ともいえる
虎を野に放ったようなものだ
■
秀吉は急速に天下をとった
そのため信長のように既成勢力を一つ一つ潰してゆくのではなく、それとも妥協し、手をつなぎ、それをよろこばせつつ、ついに天下をとった
徳川家に対してもそうである
家康を敵にまわせば北条氏と同盟し、さらに奥州の諸豪と結び、ついに三河から向こうの東日本は秀吉と交戦状態に入り、これを討伐しているまに九州、四国が立ち上がり、秀吉は東西勢力の挟み撃ちになるおそれがあった
それを見抜いたればこそ、家康に機嫌をとってとって、とりつくしたのだ
ところがいまや北条はいない
九州、四国も安定している
もはや機嫌をとる必要性もなく、にわかに鬼面と化して家康を討滅してしまえばよいのだが、しかし秀吉は天性のお人好しなところがある
家康を滅ぼさなかった
■
鶴松の死から十数日たった8月20日、秀吉はにわかに、「大明国へ討ちいる」と宣言した
狂気の沙汰である
秀吉の諸大名のたれ一人として、この外征を喜ぶものはあるまい
みな、戦国期を切り抜けてきて、疲れきっている
千代は、秀吉ほどに時代の心をつかみ、人の欲する方向を明察する名人が、これほどのことがわからないのか、と思った
たしかに、豊臣家の衰運はこのときにはじまるのだが、千代は、それをごく女らしく鶴松の死で察した
■
秀吉の浪費はとめどもない
外征軍が朝鮮で戦っているときに、戦術上、政治上なんの意味もない金殿玉楼を、伏見桃山の丘陵に現出せしめようというのである
当時、秀吉は、日本一の符号であり、おそらく史上、前古未曾有の大金持ちであった
自分のお金を浪費するのか
そうではないのである
当時の経済の仕組みとして、戦争をおこして兵を外地にやるのも、その経費、戦費はすべて諸大名の自前であった
秀吉の自身の財産の損にはならないのである
伏見城を築くについてもそうであった
天下の諸侯に手伝いをさせ、費用はすべてかれらの頭割りになる
むしろ、諸大名が個人の浪費によって貧乏すればするほど、比較して秀吉は金持ちになるという仕組みであった
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「立派にお振舞あそばされて、後世に恥を残されますな」
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室町時代や鎌倉時代、また江戸時代といった社会の固定した時代では、人間は生まれた環境から容易に抜け出せない
しかし戦国時代は違う
主人も有能の士をよりすぐってめしかかえるかわり、士たる者も主人を選ぶ
選ぶ自由を持っている
主人が無能で主家が振るわぬとあれば、さっさと退散するのが、この時代である
主従たがいが、たがいの才能を通じて結び合っている
それ以前やそれ以後のように、忠義、情義でのみ結び合った関係ではない
■
秀吉の外交政策最大の傑作は、家康の同盟者である織田信雄に打った手である
信雄にとって魅力的な条件を出して講和を申し入れると信雄はころりと参ってしまい、家康には相談もせず単独講和を結んでしまった
もともと事の起こりは、信雄が「秀吉は織田家を潰そうとしている。卿こそが頼りだ」と家康に泣きついてきたからこそ家康は立ち上がったのである
この軽率さは、本来の暗愚にもよるが、苦労知らずのお坊ちゃんだからこそであろう
あっという間に、家康はその強大な同盟軍を失い闘う理由も失ってしまった
家康はこれを噂で聞いた
当然、信雄の裏切りと秀吉のずるさに激怒すべきなところだが、使者を秀吉と信雄に送り、「いや、めでとうござる。御和睦は天下万民のよろこびでござれば。ー」と言上させた
外交の極というべきものであろう
■
羽柴秀吉は、内大臣からさらに官位をすすめられ、関白になった
ついでながら、秀吉は武門の出だけに、最初、源頼朝、足利尊氏の先例にならい、征夷大将軍を望んだ
が、これは歴史的に源氏の家系の者が任ぜられる職で、先例主義の宮中では任じようとしても任ずる事ができない
幸い、中国の毛利家に亡命して落魄の身を養っている前将軍足利義昭に使者を走らせ、その養子になり源氏の姓を冒そうとした
が、気位の高いこの没落貴族は自分の家系を売ることをこばんだ
それを見かねたのが、かねて秀吉に取り入っていた公卿の菊亭晴季である
関白という手がござる。 と、菊亭晴季がいった
官位から言えば関白は征夷大将軍より上である
が、関白は公卿の最高の家格である五摂家でなければその職につけない慣例がある
秀吉は、前関白近衛前久の猶子にしてもらい、ようやく関白になれた
■
徳川幕府の江戸防衛思想は、幕府創設以来の仮想敵国は、防長の毛利と薩摩の島津である
もし毛利•島津が兵を西国であげて東上してくるとき、まず姫路で抑え、姫路が陥れば大阪城でおさえ、それが陥れ名古屋城でおさえる
この三城が徳川時代を通じて最大の城郭であったことを思えば、それがわかる
が、そのいずれも陥ちれば、最後は箱根の嶮で迎え討ち、ここで敵を追い落とすというものであった
が、維新戦争の結果、箱根はもろくも潰え去って江戸に官軍を迎えてしまっている
頼みにした高名な堅城、峻嶮が役に立った例は、史上あまりない
■
家康という男は、それが本性なのかどうか、彼は年少の頃からその律義さを売り物にしてきた
「律義者の三河殿」と言えば家康のことであった
信長との同盟時代も何度か信長に煮え湯を飲まされてきたが、それでも離れずに信義ただ一つでついてきた
「徳川殿はお約束に固い」とか
「徳川殿にさえ物を頼めばかなえてもくれるし、裏切られもせぬ」ともいわれてきた
いまや、これが家康の財産である
家康の強味はまずこの世間的な信用と、次いで彼に随順しきっている三河武士団ということができるであろう
のち、秀吉危篤前後から人変わりしたほどに、この男はたけだけしい権謀術数家になって豊臣の天下を奪ってしまったうのだが、この人格変化はどういうことであろう
とにかく信長という強盛なときは一途に信長に随順し、秀吉の強盛なときは針金ほどのむほんの噂も恐れる男であった
奸悪(かんあく)。と後世に印象される家康の奇怪な性格はここにある
かなわぬ、とみれば貞女のような淑徳(しゅくとく)を発揮するのである
いまだ、と時機を見抜くと、老婆のような入り組んだ智恵、底意地の悪さを発揮するのだ
一種の人間妖怪といったほうが、家康にはあたっている
■
秀吉が家康を関東の大領主にしたことによって、考えようによっては、日本を真っ二つに割ってしまったことになる
もっと、はっきり言えば、秀吉の政権に対する家康の政権を認めた、ということさえいえるであろう
日本列島は長い
長すぎるために、一つの政権が日本を完全に統治した例はなく、常に西部政権と東部政権とがあった
遠い昔、大和に朝廷があったころはむろんそうで、その統治力はせいぜい近畿周辺に過ぎなかった
平家の政治もそうである
箱根から東側は力が及ばず、坂東の地にやすやすと頼朝が根をおろしてしまった
京都に政府を置いた足利爆風もそうで、関東の統治は関東公方に任せざるをえなかった
京、大阪に政権を持つ秀吉は、瀬戸内海沿岸から九州にかけての西国を治めることができるが、箱根から東はそうはいかない
それを家康に委ねた、ともいえる
虎を野に放ったようなものだ
■
秀吉は急速に天下をとった
そのため信長のように既成勢力を一つ一つ潰してゆくのではなく、それとも妥協し、手をつなぎ、それをよろこばせつつ、ついに天下をとった
徳川家に対してもそうである
家康を敵にまわせば北条氏と同盟し、さらに奥州の諸豪と結び、ついに三河から向こうの東日本は秀吉と交戦状態に入り、これを討伐しているまに九州、四国が立ち上がり、秀吉は東西勢力の挟み撃ちになるおそれがあった
それを見抜いたればこそ、家康に機嫌をとってとって、とりつくしたのだ
ところがいまや北条はいない
九州、四国も安定している
もはや機嫌をとる必要性もなく、にわかに鬼面と化して家康を討滅してしまえばよいのだが、しかし秀吉は天性のお人好しなところがある
家康を滅ぼさなかった
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鶴松の死から十数日たった8月20日、秀吉はにわかに、「大明国へ討ちいる」と宣言した
狂気の沙汰である
秀吉の諸大名のたれ一人として、この外征を喜ぶものはあるまい
みな、戦国期を切り抜けてきて、疲れきっている
千代は、秀吉ほどに時代の心をつかみ、人の欲する方向を明察する名人が、これほどのことがわからないのか、と思った
たしかに、豊臣家の衰運はこのときにはじまるのだが、千代は、それをごく女らしく鶴松の死で察した
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秀吉の浪費はとめどもない
外征軍が朝鮮で戦っているときに、戦術上、政治上なんの意味もない金殿玉楼を、伏見桃山の丘陵に現出せしめようというのである
当時、秀吉は、日本一の符号であり、おそらく史上、前古未曾有の大金持ちであった
自分のお金を浪費するのか
そうではないのである
当時の経済の仕組みとして、戦争をおこして兵を外地にやるのも、その経費、戦費はすべて諸大名の自前であった
秀吉の自身の財産の損にはならないのである
伏見城を築くについてもそうであった
天下の諸侯に手伝いをさせ、費用はすべてかれらの頭割りになる
むしろ、諸大名が個人の浪費によって貧乏すればするほど、比較して秀吉は金持ちになるという仕組みであった
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「立派にお振舞あそばされて、後世に恥を残されますな」