■采配 落合博満 2
■
監督としての私も、ペンナントレースで全勝できるチーム作りを最大の目標にする
あくまで理想はパーフェクトなものを描き、それに一歩でも近づいていけるよう、現実的な考え方で戦っていく
もちろん、絶対に勝てる戦い方も、私はまだ見つけていない
だから、一つ一つの場面で最善と思える策を講じていく
私は「岩瀬を出せば勝てる」と思ったことは一度もない
岩瀬に対して「抑えてくれよ」とは思っているが、一方で頭の中では岩瀬が打たれた場合の戦い方も、シミュレーションしている
岩瀬を信頼していないという意味ではない
勝負には何があるかわからないからだ
監督には様々な考え方、戦い方があり、そのどれが正しいのか結論は出ていない
恐らく結論が出ることはないだろう
ただ、岩瀬のような実績のあるストッパーが打たれて逆転負けした試合をどう捉えるか
そこを見ていくと、面白いことが浮かび上がってくる
私は件の試合後にこんなことを言っているだろう
「岩瀬で負けたら仕方ない。岩瀬だって打たれることはある」
つまり、こちらは最善と思える策を講じても、相手がうわまということはあるのだ
では、「勝利の方程式」を信じて戦う監督は何というか
「まさか、あの場面で岩瀬が打たれるとは」
勝負に絶対はない
しかし、「勝負の方程式」を駆使して最善の策を講じていけば、仮に負けても次に勝つ道筋が見える
そう考え、戦ってきたのだ
■
「国のため」「世界一になるため」などという大義名分があると、組織図や契約を曖昧にして物事を決めようとする
仕事の場面においては、契約はすべてに優先する
日本の社会には白でも黒でもない、グレーな部分が多い
グレーな部分が必要な場合もあるのだが、行動を起こす際には、「自分はどこと契約しているのか」「自分の仕事はなんなのか」をしっかり見据え、優先しなければならない
■
道の先にある「勝利」の定義は、人それぞれ
大切なのは現時点の自分が「勝ち組」なのか「負け組」なのかと自覚することではなく、ただひたすら勝利をめざしていくこと
そのプロセスが人生というものなのだろう
■
ミスは叱らない、だが手抜きは叱る
打者なら打率3割をクリアすれば一流だと言われる
普段の練習でできないことは、どんなに頑張っても実戦ではできない
ゆえにレギュラーになって活躍したいと思うなら、
1.できないことをできるようになるまで努力し、
2.できるようになったら、その確率を高める工夫をし、
3.高い確率でできることは、その質をさらに高めていく
何も反省せずに失敗を繰り返すことは論外だが、失敗を引きずって無難なプレーしかなくなることも成長の妨げになるのだ
ミスそのもの、ミスをどう反省したかが間違っていなければ、私は選手を叱ることはない
では、私が選手を叱るのはどういう場面か
それは「手抜き」によるミスをした、つまり、自分のできることをやらなかった時である
打者が打てなかった、投手が打たれてしまったということではない
投手が走者の動きをケアせずに盗塁された
捕手が意図の感じられないリードをした
野手がカバーリングを怠った
試合の勝敗とは直接関係なくても、できることをやらなかった時は、コーチや他の選手もいる前で叱責する
だから、私に叱られるのはレギュラークラスの選手の方が圧倒的に多い
■
最初に部下に示すのは「やればできるんだ」という成果
就任直後の私は誰一人選手のクビを切らず、かといって目立つ補強もせず、現有戦力を10〜15%底上げして優勝すると宣言した
組織を統括する立場になった者は、まず部下たちに「こうすればいいんだ」という方法論を示し、それで部下を動かしながら「やればできるんだ」という成果を見せてやることが大切だということだ
重要なのは、自信をつけさせ、それを確信に変えてやること
自信をつけさせても、結果が伴わなければ「ここまでやってもダメなんだ」となってしまう
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こちらがいくら自由にさせようと考えても、「こういう格好をしたら何を言われるか」「茶髪にしたら野球に打ち込んでいないと思われる」などと、自分たちで考えているのだろう
やはり、選手にとって監督とは、自分の野球人生を左右する存在なのだ
そして、そういう思いのこもった視線を常に投げかけてる
だからこそ、私は選手に見られていることを意識する中で、少しでも選手に自由に考え、過ごさせたいと思っている
しかし、それは「自分で考え、自分なりに行動すること」にほかならない
好きにやることには責任が伴う
好き勝手とは違うのだ
そのことを選手たちは自分たちでよく理解していることが、挨拶にも現れているのだと思う
■
チーム作りの基本は「今いる選手をどう鍛えるか」
■
監督になり、選手に対する言葉の掛け方の難しさは嫌という程痛感させられた
ただでさえ、選手たちは監督が自分に対してどう思っているのか、何を求めているのかといったことに敏感だ
選手や部下とのコミュニケーションの難しさは、監督や上司という立場にとって永遠のテーマなのかもしれない
「厳しいことを言ってくれる人の言うことほど、しっかりと聞きなさい」
ある程度年齢を重ねていけば、年長者が繰り返してくれるアドバイスは、自分のためを思ってのことなのだと理解できる
だが、若い頃は、なかなかそうは思えない
どうしても耳触りのいいことを言ってくれる人の言うことを信じ、苦言を呈してくれる人には自分から近づこうとしない
8年間、監督を務めてきて強く感じているのは、選手の動きを常に観察し、彼らがどんな思いを抱いてプレーしているのか、自分をどう成長させたいのかを感じとってやることの大切さだ
自分なりに選手の気持ちを感じ取り、その意に沿ったアドバイスをすることができれば、それが厳しさを含んだものであれ、選手がこちらを見る目は変わる
「ああ、監督は俺のことを思ってくれているんだ」
そう選手に思わせることができれば、そこからコミュニケーションは円滑になるのではないかと考えている
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コーチがどんなに親身になって接していても、選手の側にそれを受け入れる気持ちがなければ成果は上がらない
ここが若者の成長をサポートする際の難しさでもある
一人、二人と若い選手がベテランからポジションを奪い取り、今度はそれを守り抜こうと必死にプレーする
チームには、その背中を見ている選手もいる
その静かな、しかし激しい戦いが強いチームを作っていくのではないかと感じている
■
私が伝えたことを選手はどう捉えたのか、私が知ることは出来ない
ここがコミュニケーションの最大の難しさではないだろうか
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シンプルに伝えようとすると、相手の耳に入りにくい
私がシンプルな表現を使うと「この人は、だれでも知っているような簡単なことしか言わないな」と感じるようだ
シンプルな表現は、受け手にかんちがいさせる場合が少なく、大切な要素を凝縮しているものなのだ
高い技術を持っている人ほど、その難しさを熟知しているからこそ、第三者に伝える際にはシンプルな表現を使おうとする
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「誰かが何かを始めようとする時、なぜ粗探しをするような見方しか出来ないのだろう。しかも自分の目で見て確かめることもせずに」
私自身は「プロだからこそ見なければわからない」ものだと実感した
プロだから見なくてもわかると言う人は、自分が経験した野球で時間が止まっている
どんな世界でも、外から見える姿に大きな変化はなくても、内部ではさまざまな進歩や変化があるはずなのに、それをみようとはしない
そして、「昔はこうだった」という論点でしか批評できない
他の選手の長所を探す目を持つことで、自分が新たな取り組みをする時の引き出しにすることができる
「言われなくてもわかっている」で片付ける部下は大成しないと書いた
自分の仕事だからこそ、まだまだ知らないことがあるはずだという謙虚な姿勢を持ち、仲間、ライバル、同業他社が何かに取り組もうとしている際には、深い関心を寄せながら観察してみるべきだ
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投手に関することは森に任せられると感じ、私は投手起用について口を挟むのをやめた
技術面でも気持ちの面でも、投手のことはよくわからないからだ
それに選手時代に仕えた監督を見ていた印象として、何でも自分でやらなければ気が済まないと動き回る監督ほど失敗するというものがあった
ドラゴンズは投手力を前面に押し出して戦い、2010年、2011年のセ・リーグ連覇など球団史上でも特筆すべき成績を残しているが、その土台を築いたのは森コーチである
監督である私が貢献したことがあるとすれば、森をコーチに据え、すべてを任せたことではないだろうか
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自分にない色(能力)を使う勇気が、絵の完成度を高めてくれる
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監督の仕事は、選手を動かしてチームを勝利に導くことだ
すなわち、勝利に結びつくよう采配を降るわけだが、その際に大切なのは、グラウンドの中にある情報をどれだけ感じ取れるかということだろう
そこでじゃまになるのが固定観念である
どうも普段とは違うんじゃないかと感じ取ることができれば、頭がその理由を探ろうと働き出す
つまり、視覚で捉えている映像は同じでも、固定観念を取り除けば、様々な情報が得られることが多いのだ
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監督としての私も、ペンナントレースで全勝できるチーム作りを最大の目標にする
あくまで理想はパーフェクトなものを描き、それに一歩でも近づいていけるよう、現実的な考え方で戦っていく
もちろん、絶対に勝てる戦い方も、私はまだ見つけていない
だから、一つ一つの場面で最善と思える策を講じていく
私は「岩瀬を出せば勝てる」と思ったことは一度もない
岩瀬に対して「抑えてくれよ」とは思っているが、一方で頭の中では岩瀬が打たれた場合の戦い方も、シミュレーションしている
岩瀬を信頼していないという意味ではない
勝負には何があるかわからないからだ
監督には様々な考え方、戦い方があり、そのどれが正しいのか結論は出ていない
恐らく結論が出ることはないだろう
ただ、岩瀬のような実績のあるストッパーが打たれて逆転負けした試合をどう捉えるか
そこを見ていくと、面白いことが浮かび上がってくる
私は件の試合後にこんなことを言っているだろう
「岩瀬で負けたら仕方ない。岩瀬だって打たれることはある」
つまり、こちらは最善と思える策を講じても、相手がうわまということはあるのだ
では、「勝利の方程式」を信じて戦う監督は何というか
「まさか、あの場面で岩瀬が打たれるとは」
勝負に絶対はない
しかし、「勝負の方程式」を駆使して最善の策を講じていけば、仮に負けても次に勝つ道筋が見える
そう考え、戦ってきたのだ
■
「国のため」「世界一になるため」などという大義名分があると、組織図や契約を曖昧にして物事を決めようとする
仕事の場面においては、契約はすべてに優先する
日本の社会には白でも黒でもない、グレーな部分が多い
グレーな部分が必要な場合もあるのだが、行動を起こす際には、「自分はどこと契約しているのか」「自分の仕事はなんなのか」をしっかり見据え、優先しなければならない
■
道の先にある「勝利」の定義は、人それぞれ
大切なのは現時点の自分が「勝ち組」なのか「負け組」なのかと自覚することではなく、ただひたすら勝利をめざしていくこと
そのプロセスが人生というものなのだろう
■
ミスは叱らない、だが手抜きは叱る
打者なら打率3割をクリアすれば一流だと言われる
普段の練習でできないことは、どんなに頑張っても実戦ではできない
ゆえにレギュラーになって活躍したいと思うなら、
1.できないことをできるようになるまで努力し、
2.できるようになったら、その確率を高める工夫をし、
3.高い確率でできることは、その質をさらに高めていく
何も反省せずに失敗を繰り返すことは論外だが、失敗を引きずって無難なプレーしかなくなることも成長の妨げになるのだ
ミスそのもの、ミスをどう反省したかが間違っていなければ、私は選手を叱ることはない
では、私が選手を叱るのはどういう場面か
それは「手抜き」によるミスをした、つまり、自分のできることをやらなかった時である
打者が打てなかった、投手が打たれてしまったということではない
投手が走者の動きをケアせずに盗塁された
捕手が意図の感じられないリードをした
野手がカバーリングを怠った
試合の勝敗とは直接関係なくても、できることをやらなかった時は、コーチや他の選手もいる前で叱責する
だから、私に叱られるのはレギュラークラスの選手の方が圧倒的に多い
■
最初に部下に示すのは「やればできるんだ」という成果
就任直後の私は誰一人選手のクビを切らず、かといって目立つ補強もせず、現有戦力を10〜15%底上げして優勝すると宣言した
組織を統括する立場になった者は、まず部下たちに「こうすればいいんだ」という方法論を示し、それで部下を動かしながら「やればできるんだ」という成果を見せてやることが大切だということだ
重要なのは、自信をつけさせ、それを確信に変えてやること
自信をつけさせても、結果が伴わなければ「ここまでやってもダメなんだ」となってしまう
■
こちらがいくら自由にさせようと考えても、「こういう格好をしたら何を言われるか」「茶髪にしたら野球に打ち込んでいないと思われる」などと、自分たちで考えているのだろう
やはり、選手にとって監督とは、自分の野球人生を左右する存在なのだ
そして、そういう思いのこもった視線を常に投げかけてる
だからこそ、私は選手に見られていることを意識する中で、少しでも選手に自由に考え、過ごさせたいと思っている
しかし、それは「自分で考え、自分なりに行動すること」にほかならない
好きにやることには責任が伴う
好き勝手とは違うのだ
そのことを選手たちは自分たちでよく理解していることが、挨拶にも現れているのだと思う
■
チーム作りの基本は「今いる選手をどう鍛えるか」
■
監督になり、選手に対する言葉の掛け方の難しさは嫌という程痛感させられた
ただでさえ、選手たちは監督が自分に対してどう思っているのか、何を求めているのかといったことに敏感だ
選手や部下とのコミュニケーションの難しさは、監督や上司という立場にとって永遠のテーマなのかもしれない
「厳しいことを言ってくれる人の言うことほど、しっかりと聞きなさい」
ある程度年齢を重ねていけば、年長者が繰り返してくれるアドバイスは、自分のためを思ってのことなのだと理解できる
だが、若い頃は、なかなかそうは思えない
どうしても耳触りのいいことを言ってくれる人の言うことを信じ、苦言を呈してくれる人には自分から近づこうとしない
8年間、監督を務めてきて強く感じているのは、選手の動きを常に観察し、彼らがどんな思いを抱いてプレーしているのか、自分をどう成長させたいのかを感じとってやることの大切さだ
自分なりに選手の気持ちを感じ取り、その意に沿ったアドバイスをすることができれば、それが厳しさを含んだものであれ、選手がこちらを見る目は変わる
「ああ、監督は俺のことを思ってくれているんだ」
そう選手に思わせることができれば、そこからコミュニケーションは円滑になるのではないかと考えている
■
コーチがどんなに親身になって接していても、選手の側にそれを受け入れる気持ちがなければ成果は上がらない
ここが若者の成長をサポートする際の難しさでもある
一人、二人と若い選手がベテランからポジションを奪い取り、今度はそれを守り抜こうと必死にプレーする
チームには、その背中を見ている選手もいる
その静かな、しかし激しい戦いが強いチームを作っていくのではないかと感じている
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私が伝えたことを選手はどう捉えたのか、私が知ることは出来ない
ここがコミュニケーションの最大の難しさではないだろうか
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シンプルに伝えようとすると、相手の耳に入りにくい
私がシンプルな表現を使うと「この人は、だれでも知っているような簡単なことしか言わないな」と感じるようだ
シンプルな表現は、受け手にかんちがいさせる場合が少なく、大切な要素を凝縮しているものなのだ
高い技術を持っている人ほど、その難しさを熟知しているからこそ、第三者に伝える際にはシンプルな表現を使おうとする
■
「誰かが何かを始めようとする時、なぜ粗探しをするような見方しか出来ないのだろう。しかも自分の目で見て確かめることもせずに」
私自身は「プロだからこそ見なければわからない」ものだと実感した
プロだから見なくてもわかると言う人は、自分が経験した野球で時間が止まっている
どんな世界でも、外から見える姿に大きな変化はなくても、内部ではさまざまな進歩や変化があるはずなのに、それをみようとはしない
そして、「昔はこうだった」という論点でしか批評できない
他の選手の長所を探す目を持つことで、自分が新たな取り組みをする時の引き出しにすることができる
「言われなくてもわかっている」で片付ける部下は大成しないと書いた
自分の仕事だからこそ、まだまだ知らないことがあるはずだという謙虚な姿勢を持ち、仲間、ライバル、同業他社が何かに取り組もうとしている際には、深い関心を寄せながら観察してみるべきだ
■
投手に関することは森に任せられると感じ、私は投手起用について口を挟むのをやめた
技術面でも気持ちの面でも、投手のことはよくわからないからだ
それに選手時代に仕えた監督を見ていた印象として、何でも自分でやらなければ気が済まないと動き回る監督ほど失敗するというものがあった
ドラゴンズは投手力を前面に押し出して戦い、2010年、2011年のセ・リーグ連覇など球団史上でも特筆すべき成績を残しているが、その土台を築いたのは森コーチである
監督である私が貢献したことがあるとすれば、森をコーチに据え、すべてを任せたことではないだろうか
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自分にない色(能力)を使う勇気が、絵の完成度を高めてくれる
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監督の仕事は、選手を動かしてチームを勝利に導くことだ
すなわち、勝利に結びつくよう采配を降るわけだが、その際に大切なのは、グラウンドの中にある情報をどれだけ感じ取れるかということだろう
そこでじゃまになるのが固定観念である
どうも普段とは違うんじゃないかと感じ取ることができれば、頭がその理由を探ろうと働き出す
つまり、視覚で捉えている映像は同じでも、固定観念を取り除けば、様々な情報が得られることが多いのだ