歴史

功名が辻 司馬遼太郎 2

功名が辻2


北政所は、豊臣家の後継者としての秀頼を二なく愛しいたわっていたし、この気持ちは、豊臣家の滅亡まで変わらなかった
ただ、豊臣家の護持について徳川家康をひどく信頼し、接近し過ぎていた点だけが、淀殿とはきわだって違う政治的色彩を持っている
千代が北政所と親しくすることは、同時に豊臣家の別格の大諸侯である徳川家康の与党に入ることでもあった


家康の構想力など、秀吉が月だとすればスッポンどころか、泥がめでしかない
天下取りも構想力なのである
夢と現実を取り混ぜた構想を描き、あちらを押さえこちらを持ち上げ、右は潰して左は育て、といった具合に、一歩一歩実現してゆき、時至れば一気に仕上げてしまう、その基礎となるのは構想力だ
豊臣家の諸大名はいずれも戦場生き残りの荒大名であり、軍を指揮させてはどの時代の武将よりも優れているが、かといって、加藤清正、福島正則、藤堂高虎、池田輝政、浅野長政、黒田長政などに天下を料理できるほどの構想力はあるか
ない。所詮は大名にしかなれぬ、それが、精一杯の男どもであった
家康はどうか
信長の死後、秀吉と敵対していたところ、しきりと東海、信州、甲州方面を切りとって自家の勢力を伸ばしていたようだが、性、慎重に過ぎ、足元を見過ぎ、博打をするにしても自分の持ち金のせいぜい一割ぐらいしかはらない、という現実密着の性格を持ちすぎている
飛躍がない
ない、というのは創造力にとぼしいということである
所詮は、家康は既成の天下を継承はできても独力で天下を創作することは無理な器であった
かといって、豊臣家のならび大名からみれば、家康は群を抜いている
秀吉にはるかに及ばぬにしても


武士というものは、鎌倉以来自分の土地を安堵してくれる側につくのが本筋なのだ
一所懸命という言葉がある
一所とは、自分の所領のことだ
それに、命を懸けるというのが、一所懸命の語源なのである
古来、武士の大鉄則であって、天下の主がたれであろうと、自分の所領わ安堵してくれる側につくのである
平家が興れば平家につき、源氏が興れば源氏について、土地を保全してもらうのが武士の考え方の基本であるべきだ


六平太「徳川殿は、むしろ、上杉氏の謀叛を待っているようでありますな。」
上杉討伐が目的ではない
家康は平和を極度に怖れていた
このまま無事平穏が続けば、豊臣体制がそのまま続くということになる
つまり、家康の位置も死ぬまでかわらぬ、ということになる
乱が、起こらねばならぬ
そのためにこそ、家康は、傍若無人に秀吉の遺言や残した法度をやぶって、叛骨のある大名を刺戟しようとしている
千代「加賀の前田家の場合もそうでしたね」
前田家の場合、というのは、利家の死後、そのあとをついだ利長が、根も葉もない謀叛の噂を立てられ、それを家康がしつこく追及して、「討伐する」といいだしたのである
前田利長はおどろき、弁口の達者な家来をつかわしてかろうじて家康の怒りをなだめ、大事にいたらなかった
家康は残念であったろう
相手が上杉であれ前田であれ、軍事行動中にうまく機をとらえて政権をとってしまう
そう考えているに違いない


千代の芸がわかった
文箱の封印つきのまま家康に差し出す
すると、家康は伊右衛門の律儀さ、誠実さ、そして自分に対するそこまでの肩入れに感激するであろう
もし奉行衆の回状を見てからその読みがらを家康に差し出すとすれば、やはり回文に接していろいろと思案した、ということを疑われても仕方がないのである
どうせ、家康に味方するなら、文箱を封印ごと差し出しておしまいなさい、というのが千代の心得た作戦であった


徳川殿は、小牧•長久手の陣で故太閤でさえ一敗を喫したほどの軍略家である
石田三成はどれほどの軍功がある男ではない
かつ、三成が押したてている毛利輝元は名家の三代目で凡庸そのものの男である
とても家康には太刀打ちできない
次に身分である家康は関東255万石の大大名であり、三成は江州佐和山20万石足らずの身上で、この点では比べ物にもならない
天下の諸侯に動員する上で、信用が違うのである
(おそらく戦国の世に戻るであろう)
と伊右衛門は思っていた
天下が乱れに乱れれば、統率力のある、身代の大きい者を押したてて自家の運を切り開くのが戦国の作法というものであった


「徳川殿が勝つかどうか、そういうことはわからん。わかっておればもともと合戦などをする必要のないことだ」
「徳川殿を勝たせるのだ」
「どのように味方が苦境にたっていても、味方の最後の勝利を信じ切って働くことだ。わしはこの一戦で山内家の家運を開く。そのほうどもも、この戦で家運を開け。わしが討死すれば、弟の子忠義を立てよ。そのほうどもが討死すれば必ず子を立ててやる」


実に伊右衛門は奇跡の男と言って良かった
関ヶ原に出陣した東軍諸将の中で織田、豊臣、徳川の三代を生き延び得た者は、家康その人の他に伊右衛門しかいない
福島正則らは秀吉からこちらの人間だし、黒田長政や細川忠興は第二世でそのおやじ殿は別として彼ら自身織田につかえたことはない
さまで武辺者でもないこの夫が三代に渡る重要な戦場にはことごとく出陣し、目立つほどの武功もないかわりに大したしくじりもなく場数のみを重ねてきた
豪傑、軍略家といわれた連中は、ほとんどが早死するか、さもなければ自分の器量才能を誇り、増上慢を生じ、人と衝突して世間の表から消えた
(この亭主だけが、はればれしくも生き残っている)
それが千代にはおかしかった
可もなく不可もない人間で律義一方の男だけが人の世の勝利者になるものだろうか


年を経れば人々は同じ生の中に生かされているということが、しみじみとわかります
それが物のはずみで敵になり、味方になっても所詮は仮の姿に過ぎぬということがわかるような気がします
それがわかってくると人生の滋味が味わえるとともに、もはや若い頃のような、無法にどこまでも突っ込んでゆく行動が起こりませぬ
仕事は若い頃、物を味わうのは老いてから、きっとそのようになっているのでございましょう


土佐が一応鎮定されたというのに、伊右衛門はなお大阪にいる
だけでなく、大阪でどしどし牢人を召しかかえては家臣にし、それを船に乗せて土佐へ送りこんでいる
幕末まで続いた土佐24万石の山内家の家臣団の七割までは、このとき伊右衛門が大阪で召し抱えた諸国牢人である


井伊直政
「上様もときどき対州殿の噂をなされます。関ヶ原の働き、対州の功は、木で申せば幹である。諸将の功は枝葉である、と」

かといって伊右衛門には天下の武士が憧れるような武功は何ひとつない
このため、幕末にいたるまで土佐藩は他の藩士に肩身が狭かった
幕末など、土佐藩士は、酒席などで「貴藩のご藩祖はいったいどのような御武功で24万石を得られたのでござるか」と、聞かれることが多い
他藩士もむろん、その事情をよく知っていて、からかっているのである

功名が辻 司馬遼太郎

功名が辻 司馬遼太郎


室町時代や鎌倉時代、また江戸時代といった社会の固定した時代では、人間は生まれた環境から容易に抜け出せない
しかし戦国時代は違う
主人も有能の士をよりすぐってめしかかえるかわり、士たる者も主人を選ぶ
選ぶ自由を持っている
主人が無能で主家が振るわぬとあれば、さっさと退散するのが、この時代である
主従たがいが、たがいの才能を通じて結び合っている
それ以前やそれ以後のように、忠義、情義でのみ結び合った関係ではない


秀吉の外交政策最大の傑作は、家康の同盟者である織田信雄に打った手である
信雄にとって魅力的な条件を出して講和を申し入れると信雄はころりと参ってしまい、家康には相談もせず単独講和を結んでしまった
もともと事の起こりは、信雄が「秀吉は織田家を潰そうとしている。卿こそが頼りだ」と家康に泣きついてきたからこそ家康は立ち上がったのである
この軽率さは、本来の暗愚にもよるが、苦労知らずのお坊ちゃんだからこそであろう
あっという間に、家康はその強大な同盟軍を失い闘う理由も失ってしまった
家康はこれを噂で聞いた
当然、信雄の裏切りと秀吉のずるさに激怒すべきなところだが、使者を秀吉と信雄に送り、「いや、めでとうござる。御和睦は天下万民のよろこびでござれば。ー」と言上させた
外交の極というべきものであろう


羽柴秀吉は、内大臣からさらに官位をすすめられ、関白になった
ついでながら、秀吉は武門の出だけに、最初、源頼朝、足利尊氏の先例にならい、征夷大将軍を望んだ
が、これは歴史的に源氏の家系の者が任ぜられる職で、先例主義の宮中では任じようとしても任ずる事ができない
幸い、中国の毛利家に亡命して落魄の身を養っている前将軍足利義昭に使者を走らせ、その養子になり源氏の姓を冒そうとした
が、気位の高いこの没落貴族は自分の家系を売ることをこばんだ
それを見かねたのが、かねて秀吉に取り入っていた公卿の菊亭晴季である
関白という手がござる。 と、菊亭晴季がいった
官位から言えば関白は征夷大将軍より上である
が、関白は公卿の最高の家格である五摂家でなければその職につけない慣例がある
秀吉は、前関白近衛前久の猶子にしてもらい、ようやく関白になれた


徳川幕府の江戸防衛思想は、幕府創設以来の仮想敵国は、防長の毛利と薩摩の島津である
もし毛利•島津が兵を西国であげて東上してくるとき、まず姫路で抑え、姫路が陥れば大阪城でおさえ、それが陥れ名古屋城でおさえる
この三城が徳川時代を通じて最大の城郭であったことを思えば、それがわかる
が、そのいずれも陥ちれば、最後は箱根の嶮で迎え討ち、ここで敵を追い落とすというものであった
が、維新戦争の結果、箱根はもろくも潰え去って江戸に官軍を迎えてしまっている
頼みにした高名な堅城、峻嶮が役に立った例は、史上あまりない


家康という男は、それが本性なのかどうか、彼は年少の頃からその律義さを売り物にしてきた
「律義者の三河殿」と言えば家康のことであった
信長との同盟時代も何度か信長に煮え湯を飲まされてきたが、それでも離れずに信義ただ一つでついてきた
「徳川殿はお約束に固い」とか
「徳川殿にさえ物を頼めばかなえてもくれるし、裏切られもせぬ」ともいわれてきた
いまや、これが家康の財産である
家康の強味はまずこの世間的な信用と、次いで彼に随順しきっている三河武士団ということができるであろう
のち、秀吉危篤前後から人変わりしたほどに、この男はたけだけしい権謀術数家になって豊臣の天下を奪ってしまったうのだが、この人格変化はどういうことであろう
とにかく信長という強盛なときは一途に信長に随順し、秀吉の強盛なときは針金ほどのむほんの噂も恐れる男であった
奸悪(かんあく)。と後世に印象される家康の奇怪な性格はここにある
かなわぬ、とみれば貞女のような淑徳(しゅくとく)を発揮するのである
いまだ、と時機を見抜くと、老婆のような入り組んだ智恵、底意地の悪さを発揮するのだ
一種の人間妖怪といったほうが、家康にはあたっている


秀吉が家康を関東の大領主にしたことによって、考えようによっては、日本を真っ二つに割ってしまったことになる
もっと、はっきり言えば、秀吉の政権に対する家康の政権を認めた、ということさえいえるであろう
日本列島は長い
長すぎるために、一つの政権が日本を完全に統治した例はなく、常に西部政権と東部政権とがあった
遠い昔、大和に朝廷があったころはむろんそうで、その統治力はせいぜい近畿周辺に過ぎなかった
平家の政治もそうである
箱根から東側は力が及ばず、坂東の地にやすやすと頼朝が根をおろしてしまった
京都に政府を置いた足利爆風もそうで、関東の統治は関東公方に任せざるをえなかった
京、大阪に政権を持つ秀吉は、瀬戸内海沿岸から九州にかけての西国を治めることができるが、箱根から東はそうはいかない
それを家康に委ねた、ともいえる
虎を野に放ったようなものだ


秀吉は急速に天下をとった
そのため信長のように既成勢力を一つ一つ潰してゆくのではなく、それとも妥協し、手をつなぎ、それをよろこばせつつ、ついに天下をとった
徳川家に対してもそうである
家康を敵にまわせば北条氏と同盟し、さらに奥州の諸豪と結び、ついに三河から向こうの東日本は秀吉と交戦状態に入り、これを討伐しているまに九州、四国が立ち上がり、秀吉は東西勢力の挟み撃ちになるおそれがあった
それを見抜いたればこそ、家康に機嫌をとってとって、とりつくしたのだ
ところがいまや北条はいない
九州、四国も安定している
もはや機嫌をとる必要性もなく、にわかに鬼面と化して家康を討滅してしまえばよいのだが、しかし秀吉は天性のお人好しなところがある
家康を滅ぼさなかった


鶴松の死から十数日たった8月20日、秀吉はにわかに、「大明国へ討ちいる」と宣言した
狂気の沙汰である
秀吉の諸大名のたれ一人として、この外征を喜ぶものはあるまい
みな、戦国期を切り抜けてきて、疲れきっている
千代は、秀吉ほどに時代の心をつかみ、人の欲する方向を明察する名人が、これほどのことがわからないのか、と思った
たしかに、豊臣家の衰運はこのときにはじまるのだが、千代は、それをごく女らしく鶴松の死で察した


秀吉の浪費はとめどもない
外征軍が朝鮮で戦っているときに、戦術上、政治上なんの意味もない金殿玉楼を、伏見桃山の丘陵に現出せしめようというのである
当時、秀吉は、日本一の符号であり、おそらく史上、前古未曾有の大金持ちであった
自分のお金を浪費するのか
そうではないのである
当時の経済の仕組みとして、戦争をおこして兵を外地にやるのも、その経費、戦費はすべて諸大名の自前であった
秀吉の自身の財産の損にはならないのである
伏見城を築くについてもそうであった
天下の諸侯に手伝いをさせ、費用はすべてかれらの頭割りになる
むしろ、諸大名が個人の浪費によって貧乏すればするほど、比較して秀吉は金持ちになるという仕組みであった


「立派にお振舞あそばされて、後世に恥を残されますな」


人間とはなにか

人間とはなにか 司馬遼太郎

■龍馬がゆく
事をなすにあたっては、人の真似をしちゃいかん
世の規制概念をやぶる、というのが真の仕事というものである、と龍馬はいう

■龍馬がゆく
仕事というものは、全部をやってはいけない
八分まででいい
八分までが困難の道である
あとの二分はだれでもできる
その二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまう
それでなければ大事業というのはできない

■「幕末」桜田門外の変
明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外から始まる
斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を斬られたことによって果たした
この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない

■世に棲む日日
革命は三代で成立するかもしれない
初代は松蔭のように思想家として登場し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう
初代は多くは刑死する
二代は晋作のような乱世の雄である
多くは乱刃の中で闘争し、結局は非業に斃れねばならない
三代目は、伊藤俊輔、山形有朋がもっともよくその型を代表しているであろう
彼ら理想よりも実務を重んじる三代目たちは、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは事業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命を実務と心得て、結局は初代と二代目がやりちらした仕事の形をつけ、新しい権力社会を作り上げ、その社会を守るため、多くは保守的な権力政治家になる

■坂の上の雲
明治は、日本人の中に能力主義が復活した時代であった
能力主義という、この狩猟民族だけに必要な価値判定の基準は、農耕主体の長い伝統の中で眠らされてきた
途中、戦国の百年というのが、この遺伝体質を目覚めさせた
その中でも極端に能力主義を取ったのが織田軍団であり、その点の感覚のにぶい国々を征服した
能力主義の挫折は織田信長自身が自分の最期を持って証明した
江戸期は、能力主義を大勢としては否定した時代で、否定することによって封建制というものは保たれ、日本人たちは再び農耕型の精神と生活に戻った
それが三百年近く続き、明治になる

■翔ぶが如く
一人の人間が、地元のあらゆる階層から神人的な個人崇拝をうけたという例は、加藤清正と西郷隆盛以外にはちょっと考えられない

■「手掘り日本史」歴史の中の人間
信長も頑固なように見えて、非常に柔軟です
信長に感心することがあります
彼は桶狭間で一か八かのバクチをしますね
しかし彼は、その生涯のうちに、こんなバクチは二度と打とうとしない
そのあとの信長の戦いかたは、味方が敵の数倍になるまで待っています
これなら確実に勝てる、というときになってから行動を起こす
自分が桶狭間で成功したのは奇蹟だった、ということを知っている
これが彼が他の人と明らかに違う偉さではないでしょうか
普通の人間だったら、俺はやったぞ、と生涯の語り草にして、「あれを見習え、諸君」とか何とかいうことになるでしょうしかし、彼はついに自分自身の成功をみなわなかった
信長のすごさはそこにあるようです

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