功名が辻2
■
北政所は、豊臣家の後継者としての秀頼を二なく愛しいたわっていたし、この気持ちは、豊臣家の滅亡まで変わらなかった
ただ、豊臣家の護持について徳川家康をひどく信頼し、接近し過ぎていた点だけが、淀殿とはきわだって違う政治的色彩を持っている
千代が北政所と親しくすることは、同時に豊臣家の別格の大諸侯である徳川家康の与党に入ることでもあった
■
家康の構想力など、秀吉が月だとすればスッポンどころか、泥がめでしかない
天下取りも構想力なのである
夢と現実を取り混ぜた構想を描き、あちらを押さえこちらを持ち上げ、右は潰して左は育て、といった具合に、一歩一歩実現してゆき、時至れば一気に仕上げてしまう、その基礎となるのは構想力だ
豊臣家の諸大名はいずれも戦場生き残りの荒大名であり、軍を指揮させてはどの時代の武将よりも優れているが、かといって、加藤清正、福島正則、藤堂高虎、池田輝政、浅野長政、黒田長政などに天下を料理できるほどの構想力はあるか
ない。所詮は大名にしかなれぬ、それが、精一杯の男どもであった
家康はどうか
信長の死後、秀吉と敵対していたところ、しきりと東海、信州、甲州方面を切りとって自家の勢力を伸ばしていたようだが、性、慎重に過ぎ、足元を見過ぎ、博打をするにしても自分の持ち金のせいぜい一割ぐらいしかはらない、という現実密着の性格を持ちすぎている
飛躍がない
ない、というのは創造力にとぼしいということである
所詮は、家康は既成の天下を継承はできても独力で天下を創作することは無理な器であった
かといって、豊臣家のならび大名からみれば、家康は群を抜いている
秀吉にはるかに及ばぬにしても
■
武士というものは、鎌倉以来自分の土地を安堵してくれる側につくのが本筋なのだ
一所懸命という言葉がある
一所とは、自分の所領のことだ
それに、命を懸けるというのが、一所懸命の語源なのである
古来、武士の大鉄則であって、天下の主がたれであろうと、自分の所領わ安堵してくれる側につくのである
平家が興れば平家につき、源氏が興れば源氏について、土地を保全してもらうのが武士の考え方の基本であるべきだ
■
六平太「徳川殿は、むしろ、上杉氏の謀叛を待っているようでありますな。」
上杉討伐が目的ではない
家康は平和を極度に怖れていた
このまま無事平穏が続けば、豊臣体制がそのまま続くということになる
つまり、家康の位置も死ぬまでかわらぬ、ということになる
乱が、起こらねばならぬ
そのためにこそ、家康は、傍若無人に秀吉の遺言や残した法度をやぶって、叛骨のある大名を刺戟しようとしている
千代「加賀の前田家の場合もそうでしたね」
前田家の場合、というのは、利家の死後、そのあとをついだ利長が、根も葉もない謀叛の噂を立てられ、それを家康がしつこく追及して、「討伐する」といいだしたのである
前田利長はおどろき、弁口の達者な家来をつかわしてかろうじて家康の怒りをなだめ、大事にいたらなかった
家康は残念であったろう
相手が上杉であれ前田であれ、軍事行動中にうまく機をとらえて政権をとってしまう
そう考えているに違いない
■
千代の芸がわかった
文箱の封印つきのまま家康に差し出す
すると、家康は伊右衛門の律儀さ、誠実さ、そして自分に対するそこまでの肩入れに感激するであろう
もし奉行衆の回状を見てからその読みがらを家康に差し出すとすれば、やはり回文に接していろいろと思案した、ということを疑われても仕方がないのである
どうせ、家康に味方するなら、文箱を封印ごと差し出しておしまいなさい、というのが千代の心得た作戦であった
■
徳川殿は、小牧•長久手の陣で故太閤でさえ一敗を喫したほどの軍略家である
石田三成はどれほどの軍功がある男ではない
かつ、三成が押したてている毛利輝元は名家の三代目で凡庸そのものの男である
とても家康には太刀打ちできない
次に身分である家康は関東255万石の大大名であり、三成は江州佐和山20万石足らずの身上で、この点では比べ物にもならない
天下の諸侯に動員する上で、信用が違うのである
(おそらく戦国の世に戻るであろう)
と伊右衛門は思っていた
天下が乱れに乱れれば、統率力のある、身代の大きい者を押したてて自家の運を切り開くのが戦国の作法というものであった
■
「徳川殿が勝つかどうか、そういうことはわからん。わかっておればもともと合戦などをする必要のないことだ」
「徳川殿を勝たせるのだ」
「どのように味方が苦境にたっていても、味方の最後の勝利を信じ切って働くことだ。わしはこの一戦で山内家の家運を開く。そのほうどもも、この戦で家運を開け。わしが討死すれば、弟の子忠義を立てよ。そのほうどもが討死すれば必ず子を立ててやる」
■
実に伊右衛門は奇跡の男と言って良かった
関ヶ原に出陣した東軍諸将の中で織田、豊臣、徳川の三代を生き延び得た者は、家康その人の他に伊右衛門しかいない
福島正則らは秀吉からこちらの人間だし、黒田長政や細川忠興は第二世でそのおやじ殿は別として彼ら自身織田につかえたことはない
さまで武辺者でもないこの夫が三代に渡る重要な戦場にはことごとく出陣し、目立つほどの武功もないかわりに大したしくじりもなく場数のみを重ねてきた
豪傑、軍略家といわれた連中は、ほとんどが早死するか、さもなければ自分の器量才能を誇り、増上慢を生じ、人と衝突して世間の表から消えた
(この亭主だけが、はればれしくも生き残っている)
それが千代にはおかしかった
可もなく不可もない人間で律義一方の男だけが人の世の勝利者になるものだろうか
■
年を経れば人々は同じ生の中に生かされているということが、しみじみとわかります
それが物のはずみで敵になり、味方になっても所詮は仮の姿に過ぎぬということがわかるような気がします
それがわかってくると人生の滋味が味わえるとともに、もはや若い頃のような、無法にどこまでも突っ込んでゆく行動が起こりませぬ
仕事は若い頃、物を味わうのは老いてから、きっとそのようになっているのでございましょう
■
土佐が一応鎮定されたというのに、伊右衛門はなお大阪にいる
だけでなく、大阪でどしどし牢人を召しかかえては家臣にし、それを船に乗せて土佐へ送りこんでいる
幕末まで続いた土佐24万石の山内家の家臣団の七割までは、このとき伊右衛門が大阪で召し抱えた諸国牢人である
■
井伊直政
「上様もときどき対州殿の噂をなされます。関ヶ原の働き、対州の功は、木で申せば幹である。諸将の功は枝葉である、と」
かといって伊右衛門には天下の武士が憧れるような武功は何ひとつない
このため、幕末にいたるまで土佐藩は他の藩士に肩身が狭かった
幕末など、土佐藩士は、酒席などで「貴藩のご藩祖はいったいどのような御武功で24万石を得られたのでござるか」と、聞かれることが多い
他藩士もむろん、その事情をよく知っていて、からかっているのである
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北政所は、豊臣家の後継者としての秀頼を二なく愛しいたわっていたし、この気持ちは、豊臣家の滅亡まで変わらなかった
ただ、豊臣家の護持について徳川家康をひどく信頼し、接近し過ぎていた点だけが、淀殿とはきわだって違う政治的色彩を持っている
千代が北政所と親しくすることは、同時に豊臣家の別格の大諸侯である徳川家康の与党に入ることでもあった
■
家康の構想力など、秀吉が月だとすればスッポンどころか、泥がめでしかない
天下取りも構想力なのである
夢と現実を取り混ぜた構想を描き、あちらを押さえこちらを持ち上げ、右は潰して左は育て、といった具合に、一歩一歩実現してゆき、時至れば一気に仕上げてしまう、その基礎となるのは構想力だ
豊臣家の諸大名はいずれも戦場生き残りの荒大名であり、軍を指揮させてはどの時代の武将よりも優れているが、かといって、加藤清正、福島正則、藤堂高虎、池田輝政、浅野長政、黒田長政などに天下を料理できるほどの構想力はあるか
ない。所詮は大名にしかなれぬ、それが、精一杯の男どもであった
家康はどうか
信長の死後、秀吉と敵対していたところ、しきりと東海、信州、甲州方面を切りとって自家の勢力を伸ばしていたようだが、性、慎重に過ぎ、足元を見過ぎ、博打をするにしても自分の持ち金のせいぜい一割ぐらいしかはらない、という現実密着の性格を持ちすぎている
飛躍がない
ない、というのは創造力にとぼしいということである
所詮は、家康は既成の天下を継承はできても独力で天下を創作することは無理な器であった
かといって、豊臣家のならび大名からみれば、家康は群を抜いている
秀吉にはるかに及ばぬにしても
■
武士というものは、鎌倉以来自分の土地を安堵してくれる側につくのが本筋なのだ
一所懸命という言葉がある
一所とは、自分の所領のことだ
それに、命を懸けるというのが、一所懸命の語源なのである
古来、武士の大鉄則であって、天下の主がたれであろうと、自分の所領わ安堵してくれる側につくのである
平家が興れば平家につき、源氏が興れば源氏について、土地を保全してもらうのが武士の考え方の基本であるべきだ
■
六平太「徳川殿は、むしろ、上杉氏の謀叛を待っているようでありますな。」
上杉討伐が目的ではない
家康は平和を極度に怖れていた
このまま無事平穏が続けば、豊臣体制がそのまま続くということになる
つまり、家康の位置も死ぬまでかわらぬ、ということになる
乱が、起こらねばならぬ
そのためにこそ、家康は、傍若無人に秀吉の遺言や残した法度をやぶって、叛骨のある大名を刺戟しようとしている
千代「加賀の前田家の場合もそうでしたね」
前田家の場合、というのは、利家の死後、そのあとをついだ利長が、根も葉もない謀叛の噂を立てられ、それを家康がしつこく追及して、「討伐する」といいだしたのである
前田利長はおどろき、弁口の達者な家来をつかわしてかろうじて家康の怒りをなだめ、大事にいたらなかった
家康は残念であったろう
相手が上杉であれ前田であれ、軍事行動中にうまく機をとらえて政権をとってしまう
そう考えているに違いない
■
千代の芸がわかった
文箱の封印つきのまま家康に差し出す
すると、家康は伊右衛門の律儀さ、誠実さ、そして自分に対するそこまでの肩入れに感激するであろう
もし奉行衆の回状を見てからその読みがらを家康に差し出すとすれば、やはり回文に接していろいろと思案した、ということを疑われても仕方がないのである
どうせ、家康に味方するなら、文箱を封印ごと差し出しておしまいなさい、というのが千代の心得た作戦であった
■
徳川殿は、小牧•長久手の陣で故太閤でさえ一敗を喫したほどの軍略家である
石田三成はどれほどの軍功がある男ではない
かつ、三成が押したてている毛利輝元は名家の三代目で凡庸そのものの男である
とても家康には太刀打ちできない
次に身分である家康は関東255万石の大大名であり、三成は江州佐和山20万石足らずの身上で、この点では比べ物にもならない
天下の諸侯に動員する上で、信用が違うのである
(おそらく戦国の世に戻るであろう)
と伊右衛門は思っていた
天下が乱れに乱れれば、統率力のある、身代の大きい者を押したてて自家の運を切り開くのが戦国の作法というものであった
■
「徳川殿が勝つかどうか、そういうことはわからん。わかっておればもともと合戦などをする必要のないことだ」
「徳川殿を勝たせるのだ」
「どのように味方が苦境にたっていても、味方の最後の勝利を信じ切って働くことだ。わしはこの一戦で山内家の家運を開く。そのほうどもも、この戦で家運を開け。わしが討死すれば、弟の子忠義を立てよ。そのほうどもが討死すれば必ず子を立ててやる」
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実に伊右衛門は奇跡の男と言って良かった
関ヶ原に出陣した東軍諸将の中で織田、豊臣、徳川の三代を生き延び得た者は、家康その人の他に伊右衛門しかいない
福島正則らは秀吉からこちらの人間だし、黒田長政や細川忠興は第二世でそのおやじ殿は別として彼ら自身織田につかえたことはない
さまで武辺者でもないこの夫が三代に渡る重要な戦場にはことごとく出陣し、目立つほどの武功もないかわりに大したしくじりもなく場数のみを重ねてきた
豪傑、軍略家といわれた連中は、ほとんどが早死するか、さもなければ自分の器量才能を誇り、増上慢を生じ、人と衝突して世間の表から消えた
(この亭主だけが、はればれしくも生き残っている)
それが千代にはおかしかった
可もなく不可もない人間で律義一方の男だけが人の世の勝利者になるものだろうか
■
年を経れば人々は同じ生の中に生かされているということが、しみじみとわかります
それが物のはずみで敵になり、味方になっても所詮は仮の姿に過ぎぬということがわかるような気がします
それがわかってくると人生の滋味が味わえるとともに、もはや若い頃のような、無法にどこまでも突っ込んでゆく行動が起こりませぬ
仕事は若い頃、物を味わうのは老いてから、きっとそのようになっているのでございましょう
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土佐が一応鎮定されたというのに、伊右衛門はなお大阪にいる
だけでなく、大阪でどしどし牢人を召しかかえては家臣にし、それを船に乗せて土佐へ送りこんでいる
幕末まで続いた土佐24万石の山内家の家臣団の七割までは、このとき伊右衛門が大阪で召し抱えた諸国牢人である
■
井伊直政
「上様もときどき対州殿の噂をなされます。関ヶ原の働き、対州の功は、木で申せば幹である。諸将の功は枝葉である、と」
かといって伊右衛門には天下の武士が憧れるような武功は何ひとつない
このため、幕末にいたるまで土佐藩は他の藩士に肩身が狭かった
幕末など、土佐藩士は、酒席などで「貴藩のご藩祖はいったいどのような御武功で24万石を得られたのでござるか」と、聞かれることが多い
他藩士もむろん、その事情をよく知っていて、からかっているのである